徒然なるままにナミキ

あまり昔話をするとおっさんくさいと思われるでしょうが、このような機会はめったにないので、あえて書きたいと思います。
ナミキが8月25日で閉店します。ナミキと言うのはワタシがぷよをやっていた頃に、東京において最大の勢力を誇ったゲーセンでした。京王・井の頭線明大前駅から徒歩30秒のところに建っています。
当時はぷよ通対戦台というとアキバのシントク*1、明大前ナミキ、横浜アイランド、この3箇所に多くのプレイヤーが集まりました。もちろん名古屋の新世界、福岡のホワイトハウス、仙台のエフワン*2など各地にも多数の対戦台があったころですがあえて首都圏の話だけをさせてもらいます。時代の差こそあれ、それぞれの店で全盛期を生み出し、互いの店の間で切磋琢磨するような、そういう時代でした。
もちろんプレイヤー間同士の交流は大きかったのですが、やっぱり自分のお店の常連さんから成績上位者を出したい、というグループ意識がありました。ちょうど、その3店はそれぞれ第2回マスターズマスター、初代名人、2代目名人、といったプレイヤーを抱えていましたが*3、そのタイトルでも分かるとおり、シントクからナミキ、ナミキからアイランドへとプレイヤーが流れていった歴史でもあります。
ワタシは家が千葉県船橋市でしたので、土地柄シントクをメインに対戦をしていました。ナミキの存在自体は聞いていたのですが、なかなか行くことができませんでした。
ところがある日、ワタシの予備校の同級生の中で、ぷよが格段にうまい奴がいる、と聞いて、詳しく聞くと、ナミキで対戦をやっている田中というひげを生やした奴らしいということが分かりました。早速、ナミキに行ったのですが、初めて行ったときの印象は忘れられません。
勝てませんでした。まったくと言っていいほど。
ナミキのプレイヤーはシントクのスタイルと言うのをよく知っていたようです。実際ワタシより先にナミキに行っていた「右折り返しの宮田」さんとかが、ナミキは戦術に長けている、と言っていたのは知っていたのですが、それでも単純なワタシは「相手より大きい連鎖を打てば勝てる」程度にしか思っていませんでした。
当時のナミキは「催促」という戦術を完成させていました。シントクが「連鎖尾」をメインとした連鎖のバリエーションの研究が盛んだったのに対し、ナミキはいかに相手に勝つかという対戦用の理論の研究が進んでいたのです。
ひげ田中が強いのは十分承知していましたが、何よりナミキという看板が脅威に感じました。このときを境にワタシのぷよ観は変わります。ナミキに通う回数が増えていきました。
ナミキでは火曜会というのを実施していて、火曜日には人が集まって対戦する日と決まっていました。実際火曜の夜は名だたるプレイヤーが集まり、2台の対戦台がフル回転でした。正直、新参者の自分が対戦できる機会は少なかったのですが、それでも見ているだけでお腹いっぱい、と言う攻防が目の前で繰り広げられていきます。余談ですが、昨年2ぷよを始めたばっかりのときにアイランドに見物に行って、ミスケン氏とALF氏の対戦をずーっと見ていたときも、ナミキに初めて行ったときと同じような感覚になりました。
ナミキでは月に1回づつ公認大会が行われ、第3回マスターズの次の日に行われたナミキ大会では、事実上当時最高のレベルの大会となり、128人によるトーナメントの大会という、今では考えられない隆盛を誇りました。2ぷよで参加者が増えているとはいえ、今のトンガの大会でも50〜60人規模の大会なのです。それと比較して、ナミキの狭さを考えると異常としか考えられません(笑)

*1:ハイテクランドセガ秋葉原店・現クラブセガ秋葉原

*2:ほかにもたくさんありましたが、ワタシの行った事のあるところだけ・・・

*3:グランドマスター、初代マスター、のようにここの常連、といった基盤を持つことなく流れていた人もいました